おもしろ歯学


岡崎好秀

岡山大学・医学部・歯学部附属病院 小児歯科





▲韓愈(768-824) 詩人
唐宋八大家の一人。

俳句や川柳には,歯にまつわるものが数多くある。
 わが国では松尾芭蕉の歌があまりにも有名だ。
なかでも”奥の細道”には,歯が痛むさま・歯と老化に関する歌が綴られている。

「木枯らしや 頬はれいたむ 人の顔」
「おとろいや 歯にくいあてし 海苔の砂」

芭蕉は,道中でいかに歯で苦しんでいたかがわかる。
さて,歯にまつわる歌は,漢詩にも登場する。
”白楽天”・”韓愈”・”陸游”などの歌が有名だ。
ここで”韓愈”の歌を紹介しよう。 ご存知のように,韓愈は唐の時代の有名な文学者・思想家,そして政治家でもあった。
彼は,歯周病で歯を失っていたことがわかる。
ちなみに,これを詠んだとき,まだ36歳の若さであったという・・


去年落一牙

今年落一齒

俄然落六七

落勢殊未已

餘存皆動搖

盡落應始止

昨年、一牙を落とし、


今年、一歯を落とす。

俄然として六七を落とし


落つる勢い殊に未だ己まず。

余の存するものも皆動揺し、


尽く落ちて応に始めて止むべし。

去年は奥歯が一本抜け、

今年は前歯が一本抜けた。

ちょっとの間に六本七本とぬけてゆき、

歯の抜ける勢いはなかなかやみそうもない。

あとに残った歯もみなグラグラして、

きっと全部抜け落ちるまではおさまらぬらしい。





憶初落一時

但念豁可恥

及至落二三

始憂衰即死

毎一將落時

懍懍恆在己


憶う 初めて一を落とせし時、

但だ割にして恥ず可しと念えり。


二三を落とすに至るに及んで、

始めて憂う衰えて即ち死せんことを。


一つ将に落ちんとする時毎に、

懍懍たること恒に己に在り。

最初に一本抜けたときのことを思い出す。

あの時はただ歯と歯の間がぱかり

透いたのを恥ずかしいと思った。

しかしそのあと二・三本と抜けてゆくにつれて、

このまま老衰して死ぬのではと心配した。

そして一本抜けそうになるたびに、

いつもビクビクした思いにとりつかれた。




叉牙妨食物

顛倒怯漱水

終焉捨我落

意與崩山比

今來落既熟

見落空相似

叉牙として物を食うことを妨げ、

顛倒して水に注ぐ漱ぐことを怯る。


終焉として我を捨てて落つれば

意は崩るる山に比す。


今来、落つること既に熟せり、

落つるを見れば空しく相似たり。

ちぐはぐでものを食べるのに不自由だし、

グラグラしてうがいをするのも

ビクビクものだった。

とうとう私を見捨てて抜けてしまったとき

には、まるで山が崩れ落ちたような気がした。

このころはもう抜けることに

すっかり慣れっこになって、

抜けてもああまたかと思うだけだ。

餘存二十餘

次第知落矣

儻常歳落一

自足支両紀

如其落併空

與漸亦同指

余の存せる二十余りも

次第に落ちんことを知る。


儻し常に歳ごとに一を落とすとも


自ら両紀を支うるに足れり。

如し其れ落ちて併せて空しくとも、


漸くなると亦指を同じくさん。

後に残った二十余本も、

次々に抜けてゆくに違いない。

だが仮に毎年一本ずつ抜けるとしても、

二十余年は十分に持つ勘定だ。

もしまた万が一、いっぺんに抜けて

完全な歯なしになったとしても、

少しずつ抜けてゆくのと結局は同じことだ。




人言齒之落

壽命理難恃

我言生有涯

長短倶死爾

人言齒之豁

左右驚諦視

人は言う「歯の落つるや、

寿命も理として恃み難し」と。


我は言う「生は涯り有り、

長短 倶に死する爾」と。


人は言う「歯の割なる、

左右 驚きて諦視す」と。

人は言う、「歯が抜ければ、

寿命の方も当然ながらあてにならぬ」と。

私は言う、「生命には限りがある。

長寿だろうと短命だろうと

結局は同様に死ぬのだ」と。

人は言う、「歯にポッカリすきまが出来ると、

周囲がびっくりしてじろじろみるだろう」と。




我言荘周云

木鴈各有喜

語訛黙固好

嚼廢軟還美

因歌遂成詩

持用詫妻子

我は言う「荘周がいわく、

『木と雁と 各々喜ぶこと有り』と。


語訛れば黙すること固に好し、

嚼むこと廢れて軟かなもの

還に美し」と因って歌って遂に詩を成し、


持して用って妻子に誇るらん。

私は言う、「荘子も言っているように、

『有用のもの無用のものもそれぞれ

長所がある』と。 ものが言いにくくなれば、

黙っていられるからかえって都合がよい。

噛むことが出来なくなったら、

軟らかいものがずっとうまくなるだろう」と。

そこで歌ったあげくに、この一遍の詩を作り上げた。

ひとつ、妻や子供達に見せびらかしてやろう。

(現代語解釈 「韓退之全歌集」<久保天随 日本図書センター>)